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モンゴル国

モンゴル国

正式名称は、モンゴル語キリル文字表記でМонголУлс(モンゴル・オルス)、ラテン文字転写はMongol Uls

日本語の表記はモンゴル国。通称モンゴル

モンゴル語名「モンゴル・オルス(МонголУлс)」の「モンゴル」は民族名で、「オルス/ウルス(Улс)」は「国」を意味する。

歴史

19世紀、外モンゴルから内モンゴルにかけては、清朝の支配下に置かれていた。

20世紀に入ると清朝は北方の自国領の人口密度を高くすることでロシア帝国側の侵略を防ぐ政策を実施し、それまでの辺境への漢人入植制限を廃止した。内モンゴルでは遊牧地が漢人により耕地に変えられ、モンゴル民族のうちに反漢・独立感情が高まり、反漢暴動が頻発した。中には貴族のトクトホ(モンゴル語版、ロシア語版、中国語版)のように「馬賊」となり漢人襲撃を繰り返す者もいた。一方で知識人ハイシャン(中国語版、英語版)らは漢人商人の活動に反発を覚え、未だ危機感の薄かった外モンゴル地域と連携して独立を達成することを画策。外モンゴル貴族のツェレンチミド(モンゴル語版、中国語版、英語版)らと協力し外モンゴル諸侯に独立のための説得工作を行った。

ボグド・ハーン

1911年に辛亥革命が起こると、すでにハイシャンらの説得工作が功を奏し、ロシアに独立のための財政援助を求めていたハルハ地方(外モンゴルの多くの地域)の王侯たちは清からの独立を宣言(Mongolian Revolution of 1911)。モンゴルにおけるチベット仏教界で最高権威かつ民族全体のシンボルとして君臨していた化身ラマ(活仏)のジェプツンダンバ・ホトクト8世(ボグド・ハーン)をモンゴル国の君主(ハーン)として推戴し、ボグド・ハーン政権を樹立した。1913年には、チベットとの間で相互承認条約を締結した。統治機構は清朝の整備したものをほぼそのまま利用することで、スムーズな政府の設置ができた。ただ内モンゴルとの連携については、内モンゴル解放軍を派遣し、一時的には内モンゴルの大部分を制圧したが、モンゴルの後ろ盾として経済的、軍事的支援を行っていた帝政ロシアが中華民国への配慮から、内モンゴルからの撤退を要求、撤収を余儀なくされた。

1915年、キャフタ条約(英語版)で中国の宗主権下での外モンゴル「自治」のみが、清の後を引き継いだ中華民国(以後、中国とする)とロシアによって承認されるが、内モンゴルについてはこの地への進出をうかがっていた日本に配慮して現状維持とされた。また、内モンゴルでも外モンゴルの独立に呼応する動きが見られたが、内モンゴルのかなりの地域が漢人地域になっており中国が手放そうとしなかったこと、モンゴル人の間で統一行動が取れなかったことなどから内外モンゴルの合併には至らず、以後別々の道を歩むことになる。

1917年、ロシア革命が勃発して力の空白が生じると中国は外モンゴルでの勢力回復に乗り出し、1919年には外モンゴルを占領し自治を撤廃するが、1920年10月、赤軍との内戦で不利な状況に追い込まれていたロマン・ウンゲルン率いる白軍が体制の建て直しのためにモンゴルへと侵入して中国軍を駆逐、ボグド・ハーン政権を復興させた。しかし、ウンゲルンの残虐な行動に人心が離反、そんな中でボドー、ダンザン、スフバートル、チョイバルサンら民族主義者、社会主義者はモンゴル人民党(後のモンゴル人民革命党)を結成、ソビエトの援助を求めた。これに応じた赤軍や極東共和国軍はモンゴルに介入し、7月にジェプツンタンパ8世を君主として戴いたままモンゴル人民政府を樹立した(Mongolian Revolution of 1921)。こうして立憲君主制国家としてスタートすることになった新生モンゴルだが、1924年にジェプツンタンパ8世の死去を契機に人民共和国へと政体を変更、モンゴル人民共和国(社会主義国)が成立した。なお、これら一連の動きや内モンゴルとの連帯において、リンチノ(英語版)らブリヤート・モンゴル人の活躍や理論的支えが大きく貢献していた。ブリヤート人の活動なしにはこの独立はありえなかったであろうが、モンゴル国では彼らを過小評価しがちである。

モンゴル人民共和国は、1924年 – 1928年ダンバドルジ政権の下、狭量な社会主義政策にとらわれない開明的諸策を打ち出したが、コミンテルンの指導、ソ連からの圧力により、中ソ対立以後も徹底した親ソ・社会主義路線をとることになる(一方ソ連側は一時期モンゴルを第16番目の共和国としてソ連に加えようとしていたとの説もある)。1929年 – 1932年には厳しい宗教弾圧と遊牧の強制農耕化、機械化、集団化など急進的な社会主義政策をとるが、各地で国民の約45%が参加した暴動が発生、多くのチベット仏教僧、富裕遊牧民が暴動の指導者として虐殺された。その後は急進的な政策はやや緩和され、教育や産業の充実が図られたものの、反革命のかどで粛清された国民はかなりの数に上った。

チョイバルサン

1934年にソ連と相互軍事援助協定が締結されるとともに、ソ連の指導者であったスターリンからラマ教寺院の破壊を繰り返し要求されるがゲンデン首相は拒否した。1936年にモンゴル秘密警察が設立され、ソ連派のチョイバルサンが首長となり、ゲンデンはソ連に送致され処刑された。また、同1936年3月にはソ連との間でソ蒙相互援助議定書が締結された。1937年から800の修道院が破壊され約17,000名の僧侶が処刑された。同年、大規模なソ連軍が進駐すると、政府・軍部高官・財界首脳等57,000人がゲンデン首相に係るスパイに関与したとして逮捕され20,000人が処刑された。チョイバルサンは当初バラーディン(ロシア語版)らブリヤート知識人が唱えたモンゴル語のラテン文字化ではなく、キリル文字化を決める。これによって革命前は0.7%だった識字率が1960年代には文盲の絶滅を宣言するまでに上昇する。1945年のソ連対日参戦ではモンゴル人民軍は内モンゴルの東部から西部まで進駐し、その占領下では東モンゴル自治政府や内モンゴル人民共和国など内外モンゴル統一運動も盛り上がるも、中華民国が国家承認の条件とした外モンゴル独立公民投票とモンゴル人民軍の撤退をチョイバルサンは受け入れる。チョイバルサンは1952年に死去するまで独裁政治を行った。後継者であるツェデンバルは、西部の少数民族の出身ながら粛清による極端な人材不足に乗じて一気にトップに昇りつめ、ツェデンバルはロシア人の夫人とともに数十年間にわたってモンゴル人民共和国を支配したが、1984年に健康上の理由に(認知症との説が有力)より書記長を事実上解任され、テクノクラート出身の実務派であるバトムンフが書記長に選ばれた。バトムンフはモンゴルのゴルバチョフと呼ばれ、ソ連のペレストロイカに呼応した体制内改革を行った。

近代のモンゴルと外国との戦争は1939年に当時の満蒙国境で日本軍・満州国軍とモンゴル人民軍・ソ連赤軍連合軍と軍事衝突したハルハ河戦争(ノモンハン事件)と1945年のソ連対日参戦、1947年に新疆で当時の中華民国と武力衝突した北塔山事件の時のみで、それ以降は殆ど諸外国とは戦争は行っていないが中華人民共和国とは中ソ対立でモンゴルがソ連を支持したことによる政治的対立があった。また、中華民国は1946年1月にいったんモンゴルの独立を認めたが、後ろ盾のソ連が国共内戦で中国共産党を支援したことを理由に承認を取り消した。そのため、戦後台湾に逃れた中華民国は以降も長くモンゴルを自国領と主張することになった(中華民国の政治#対蒙関係参照)。1955年、モンゴルなど東側5ヶ国と、日本など西側13ヶ国の国際連合加盟が国連安保理で一括協議された。しかし、中華民国がモンゴルの加盟に、領有権を主張して拒否権を発動したため、ソ連は報復に日本の国連加盟に拒否権を発動した。モンゴルの国連加盟は、1961年まで持ち越しとなった(日本の国連加盟は1956年)。1966年にソ蒙友好協力相互援助条約が締結された。

1989年末、ソ連・東欧情勢に触発されてモンゴルでも反官僚主義・民主化運動が起き、年明けの1990年春には、初めて日本を公式訪問したドゥマーギーン・ソドノム閣僚会議議長(首相)の決断により、一党独裁を放棄した。1992年にはモンゴル人民共和国からモンゴル国へと改称、新憲法を制定し、社会主義を完全に放棄した。ただしこの民主化プロセスにおいては、国際援助機関の関与により急速な市場経済化が進められ、経済成長を重視するあまり富の公平な配分を怠り、社会福祉を削減することで貧富の差を拡大させた[6]。資本主義化後21年を経過した現在では、貧富の差の拡大は国家的問題となっている。また社会主義時代から続いた官僚の汚職体質は民主化以後むしろ悪化しているとされる。

ツェデンバル時代に批判されていたチンギス・ハンについては、政府と国民が総力を挙げて復権に力を入れている。紙幣にまで使用されているほどである。また、カラコルム遺跡を除いて社会主義時代に積極的でなかったモンゴル帝国時代の遺跡の発掘や保存にも力を入れている。

国土と人口

面積は156万4,100平方キロメートル(日本の約4倍)

人口は299万5,900人(2014年,モンゴル国家統計委員会)

東アジアの北西部に位置し西には標高4,300mのアルタイ山脈と標高3,500mのハンガイ山脈がそびえ、東には1,000 – 1,500mの高原が広がり北東には針葉樹林が広がる。あとの国土は高山砂漠とステップの植生が南の海抜平均1,000mのゴビ砂漠まで続いている。国土の5分の4を占める草原ステップは牧草地に使用されている。重要な河川はバイカル湖に注ぐセレンゲ川とアムール川を経てオホーツク海(太平洋)にそそぐヘルレン川がある。

近年、国土の90%で砂漠化が進行しており、6万9000km2の牧草地帯が姿を消した。モンゴルで見られた植物種のうち75%が絶滅、森林伐採により、川の水位は半減、北方の森林地帯を中心に3800の河川と3500の湖があったが、2000年以降、約850の河川と約1000の湖が地図上から完全に姿を消している。

日本の県にあたるアイマク (аймаг, aimag) が21設置されており、県には郡にあたるソム (сум, sum) が347、更にその下に村にあたる1681のバグ (баг, bag) が属する。各ソムの人口は3,000人ほどで、バグは50-100家族ほどで構成されている(2001年アジア開発銀行の資料より)。世界的に見ても都市への人口集中が高い国である。

モンゴルの地方行政区分地図

  1. ウランバートル市 (Улаанбаатархот, Ulaanbaatar hot)
  2. オルホン県 (Орхон, Orhon)
  3. ダルハン・オール県 (Дархан-Уул, Darhan-Uul)
  4. ヘンティー県 (Хэнтий, Hentiy)
  5. フブスグル県 (Хөвсгөл, Hövsgöl)
  6. ホブド県 (Ховд, Hovd)
  7. オブス県 (Увс, Uvs)
  8. トゥブ県 (Төв, Töv)
  9. セレンゲ県 (Сэлэнгэ, Selenge)
  10. スフバータル県 (Сүхбаатар, Sühbaatar)
  11. ウムヌゴビ県 (Өмнөговь, Ömnögovĭ)
  12. ウブルハンガイ県 (Өвөрхангай, Övörhangay)
  13. ザブハン県 (Завхан, Zavhan)
  14. ドンドゴビ県 (Дундговь, Dundgovĭ)
  15. ドルノド県 (Дорнод, Dornod)
  16. ドルノゴビ県 (Дорноговь, Dornogovĭ)
  17. ゴビスンベル県 (Говьсүмбэр, Govĭsümber)
  18. ゴビ・アルタイ県 (Говь-Алтай, Govĭ-Altay)
  19. ボルガン県 (Булган, Bulgan)
  20. バヤンホンゴル県 (Баянхонгор, Bayanhongor)
  21. バヤン・ウルギー県 (Баян-Өлгий, Bayan-Ölgiy)
  22. アルハンガイ県 (Архангай, Arhangay)

宗教と民族

  • モンゴル系

国民の大半を占める多数民族。中でもハルハ族が最大で、他のモンゴル系諸民族は少数民族である。主な宗教はチベット仏教で、歴史的にチベットとの関わりが深い。またシャーマニズム信仰も根深い。どちらも社会主義時代は抑圧されていたが、民主化以降復活を遂げている。

    • モンゴル民族
      • ハルハ族

現体制になってからハルハ族固有の姓で登録した国民が多く、正確な人口は不明。

    • ブリヤート民族
    • オイラト族

起源はテュルク系と見られている。モンゴル国からモンゴル民族の一員とみなされているため正確な人口は不明であるが、約15万人と見られる。西部に居住。

  • テュルク系
    • カザフ民族

約4%(約10万人)で少数民族になるが、西部のバヤン・ウルギー県では人口の大半を占める。概ねイスラム教徒。

    • ツァータン(トゥバ民族)

300人前後が北部のフブスグル県に居住しているトナカイ遊牧と狩猟、採集、漁撈を行う民族。円錐形の移動式家屋「オルツ」に住む。「ツァータン」はモンゴル民族が使う他称であり、自らは「トゥバ人」「タイガ(針葉樹林帯)の人」などと名乗っている。この周辺の針葉樹林帯を行き来していた人々は、自らの居住地域が20世紀初頭モンゴル国とトゥヴァ人民共和国に分離された。伝統的にシャーマニズム信仰があり、モンゴル系の影響でチベット仏教徒も多い。

  • ツングース系
    • エヴェンキ民族

約1000人。北部セレンゲ県に居住する。伝統的にシャーマニズム信仰があるが、ロシア正教の影響もある。

Ger

ゲル

ゲル(モンゴル語: гэр、ᡣᡝᠷ転写:ger、満州語:ᠪᠣᠣ 転写:boo)は、主にモンゴル高原に住む遊牧民が使用している、伝統的な移動式住居のこと。日本では、中国語の呼び名に由来するパオ)という名前で呼ばれることも多い。

テュルク語では古来から「ユルト、あるいはユルタ(يورت)」と呼ばれたもので、現在でもテュルク系遊牧民のカザフ人やキルギス人が用いるユルトはほぼ同じ形状である。緩やかな草原地帯に適しており、より乾燥し起伏の多い西アジアではテュルク系遊牧民も方形の移動式住居を使っている。

ゲルは円形で、中心の柱(2本)によって支えられた骨組みをもち、屋根部分には中心から放射状に梁が渡される。これにヒツジの毛でつくったフェルトをかぶせ、屋根・壁に相当する覆いとする。壁の外周部分の骨格は木組みで、菱格子に組んであり接合部はピン構造になっているので蛇腹式に折り畳むことができる。(「マジックハンド」と呼ばれる玩具の伸縮部分と構造は同じである)木組みの軸にあたる部分にはラクダの腱が使われる。寒さが厳しいときは、フェルトを二重張りにしたり、オオカミなどの毛皮を張り巡らしたりして防寒とする。逆に、夏の日中暑いときはフェルトの床部分をめくり、簡単に風通しをよくすることができる。

内部は、直径4~6mほどの空間である。ドアがある正面を南向きにして立てられ、入って向かって左手の西側が男性の居住空間、向かって右手の東側が女性の居住空間である。中央にストーブを兼ねた炉を置いて、暖をとり、料理をするのに使う。炉は東側を正面にするように置かれており、女性の側から扱いやすいようになっている。向かって正面はもっとも神聖な場所で、チベット仏教の仏壇が置かれたりする。頂点部は換気や採光に用いられるよう開閉可能な天窓になっており、ストーブの煙突を出すことが可能である。

現代的なゲルの外部には発電のための太陽光パネルと蓄電池、衛星放送を受信するためのパラボラアンテナなどが設置されている。これで周囲数百キロにわたって何もない大草原でもテレビや携帯電話が利用できる(モンゴルは携帯電話の普及率が一人1台を超えており、スマートフォンも普及している)。現代の遊牧民はゲルでIT化された生活を送っている。

モンゴル帝国の時代頃までは車輪をつけ、ウマを使って引っ張って長距離を簡単に移動できるゲルが存在したことが、当時の旅行記の記録からわかっている。現在はそれほど大規模な移動は行われないため、移動のたびに分解してラクダの背やトラックに乗せて運ぶ。分解や組み立ては共に遊牧を行う数家族の男たちが総出で行い、数十分から1時間で終わる。

ナーダム

ナーダム(Наадам, ᠨᠠᠭᠠᠳᠣᠮ)とは、モンゴル国において、年に数回行われる国民行事である「民族の祭典」である。ブフ(モンゴル相撲)・競馬・弓射の3つの競技が行われる。

ナーダムはモンゴル各地で行なわれるが、最も大きいものが国家主催の国家ナーダム(イフ・ナーダム(ихнаадам, ᠶᠡᠬᠡᠨᠠᠭᠠᠳᠣᠮ))と呼ばれるもので、毎年7月11日の革命記念日にちなんで、7月11日 – 13日の3日間にわたって首都・ウランバートルの中央スタジアムで開催される。但し、競馬は専用の競馬場で開催される。

モンゴル民族としての一体感を共有する意味合いもある。

2006年には、当時農林水産大臣だった中川昭一がモンゴル国のエンフバヤル大統領と両国農業関係大臣会談を行った際、モンゴル滞在中に国家ナーダムの開会式を観覧している[1]。また、2007年には皇太子徳仁親王がモンゴル国訪問の際に国家ナーダムの開会式に出席している。

2010年、ユネスコの無形文化遺産に登録された。

ツァガーン サル

モンゴル語 – ツァガーンサル (TsagaanSar、白い月の意味) モンゴル語のツァガーンサルは、「モンゴル暦(en)の年初」の名称であって、他国語での旧正月の名称とイコールで結ばれるものではない。

政治

社会主義時代はモンゴル人民革命党の「指導的役割」が憲法で規定される一党独裁体制であり、議会制度もソビエト型の国家大会議を最高機関としてきたが、1990年の民主化後に自由選挙による複数政党制を導入し、1992年の新憲法公布後はともに直接選挙で選出される一院制の国家大会議と大統領が並立する二元主義的議院内閣制(半大統領制)を採用した。国家大会議はその後4年ごとに総選挙を行ってきたが、そのたびに政権が交代するという経緯をたどっている。なお大統領は「国民の統合の象徴」とされ、国家大会議の可決した法案の拒否権や首相指名権などの実質的な政治権能を持つが、国家大会議に議席を持つ政党の被指名者しか立候補できず、また選挙のみによって直ちに就任するのではなく、国家大会議が選挙で多数を確保した候補者を法律で認定する手続を経て就任する制約もあるため、より長い歴史を持つ国家大会議との関係は微妙である。

経済

IMFの統計によると、2013年のモンゴルのGDPは約115億ドル。一人当たりのGDPは3,996ドルで、世界平均のおよそ40%の水準である。2011年の調査では、1日2ドル未満で暮らす貧困層は115万人と推計されており、国民の40%以上を占めている。2014年で主な輸出相手国は中華人民共和国で輸出の95.3%を占め、主な輸入相手国は中国が41.5%、ロシアが27.4%、韓国が6.5%、日本が6.1%となっている。

主に畜産業と鉱業が中心でモリブデンは世界屈指の埋蔵量を持っている。現在、モンゴル政府は金鉱や銅鉱、モリブデン、石炭等の開発を推進しており、エルデネト鉱業は社会主義時代からモンゴル国内最大の企業である。そして近年では、豊富な天然資源とりわけオユトルゴイ鉱山を目的に外資系が活発になってきている。しかしながら、政治的安定性が未だに構築されておらず、政権が変わる度に、その政策方針が二転三転することで、外国の投資家に警戒感を持たせている。畜産は、ヒツジ1,168.6万頭、ヤギ1,223.8万頭、ウシ184.2万頭、ウマ200.5万頭、ラクダ25.7万頭を飼育し(2004年統計)、牧草地の広さは国土の約80%である。畜産は、そのほとんどが遊牧で行われている。

内陸国ではあるが、便宜置籍船の手数料を取るビジネスも盛んであり、例えば北朝鮮当局の保有する貨物船等がモンゴル船籍を取得している。

モンゴルの警察は、汚職疑惑などで出国禁止措置を取ることがある。こうした汚職疑惑に巻き込まれて、何年も母国に帰れない投資家や実業家など約50人が存在する。彼らは拘束されず、パスポートなども取り上げられていないが、明確な根拠もなく出国が禁止されており、事実上の監禁状態となっている。この事から、モンゴルに投資価値はないと判断する者もいる。

言語

  • モンゴル語ハルハ方言(言語系統:モンゴル諸語東部モンゴル語)

国民の95%が話す。モンゴル国憲法は、モンゴル語を唯一の公用語と定めている。公文書はモンゴル語で作成される。

    • ブリヤート方言

北部で使用される。

  • カザフ語(言語系統:テュルク諸語北西語群)

バヤン・ウルギー県の社会共通語で、学校教育はモンゴル語とカザフ語で行われる。同県においては少数民族となるモンゴル民族の多くもカザフ語を話し、議会を含むあらゆる場面での共通語となっている。

  • トゥバ語(言語系統:テュルク諸語北東語群)

トゥバ民族の言語で話者はフブスグル県に極少数。現在国内のトゥバ民族は主にモンゴル語を用い、トゥバ語話者は減少している。

ウランバートル

ウランバートル(モンゴル語: Улаанбаатар;Ulaanbaatarオラーンバータル、英: Ulan Bator)は、モンゴル国の首都であり最大の都市。同国中部、トーラ川沿岸の標高約1,300mの場所に位置する。人口は1,314,500人(2014年統計)で、同国の人口のおよそ半数近くが集まる極端な一極集中となっている。名実ともにモンゴルの政治・経済の中心地で、中国からロシア(欧州)に至る国際鉄道の主要な中継地。主産業は鉱物、食肉加工、製粉、製乳。旧名ウルガ(蒙: Өргөө;Örgöö)、フレー(蒙: Хүрээ ; Khüree)。

ゴビ砂漠

ゴビ砂漠(ゴビさばく、モンゴル語: Говь, Govi,ᠭᠣᠪᠢ中国語: 戈壁、拼音: Gēbì、英語: Gobi)は、中国の内モンゴル自治区からモンゴルにかけて広がる砂漠。東西約1600km、南北約970km、総面積は約130万km2で、世界で4番目の大きさを誇る。古くから匈奴を始め、柔然、突厥、回鶻、モンゴル帝国などの活躍の場であり、シルクロードの重要な拠点都市が幾つか存在した。また、黄砂(こうさ)とはこの地などから巻き上げられ気流に乗り運ばれる砂の事であり、春先には日本にも多く飛来する。

ゴビ(モンゴル語: Говь, Govi)とはモンゴル語で「沙漠、乾燥した土地、礫が広がる草原」などを意味する。

この様に、ゴビはある種の砂漠を意味する。「ゴビ砂漠」は「砂漠砂漠」という畳語表現だが、日本では「ゴビ砂漠」で定着している。中国においても瀚海沙漠、戈壁滩、戈壁沙漠とも表記され、古くは秦朝の頃から”大漠”と史書に記されている。

ゴビ砂漠は、雨雲がヒマラヤ山脈に遮られる為非常に乾いた風が吹き付ける。ゴビ砂漠は内陸にあるため大陸性気候であり、他の砂漠と比べ非常に高緯度(北緯43度付近、日本の札幌市に相当)であるにもかかわらず夏である5月~9月までの間の最高気温は45度を超えることもある。しかし冬である12月~3月の間は、砂漠の年中灼熱といったイメージとはかけ離れた寒風吹きすさむ厳冬の地である。特に1月末から2月にかけては最低気温がマイナス40度を割り込むことも少なくない。

現在は砂漠だが古代には植物の豊かな地域であり、大型恐竜が多く生息した。そのため、恐竜化石の世界的発掘地として知られている。

カラコルム(ハラホリンとも言う)とエルデネ ゾー寺院

カラコルム(モンゴル語: ᠬᠠᠷᠠᠬᠣᠷᠣᠮ, ラテン文字転写: Qaraqorum)は、モンゴル高原中央部のモンゴル国首都ウランバートルから西へ230km、ウブルハンガイ県のオルホン河畔に位置する都市。カラコルムとはテュルク語・モンゴル語で「黒い砂礫」を意味する。ペルシア語資料ではقراقورومQarā-qūrūmと表れ、漢語資料では哈剌和林、略して和林と表記される。また現代モンゴル語ではハラホリン(Хархорин)と表記される。

「黒い砂礫」の名前の通り、カラコルムの遺跡周辺は現在でも安山岩や玄武岩などの黒い河原石が一面に転がっており、雨水などで濡れると地面が黒っぽく見えるという。1260年に書かれたペルシア語資料『世界征服者史』によれば、カラコルムの名前の由来は都市の近くにある「カラコルム山」という黒色の石材が取れる山の名前に由来していると伝えられている。

チンギス・ハーンが大西征の兵站基地をこの地に造営し、第2代大ハーンであるオゴデイが1235年に宮殿・城壁を築いてモンゴル帝国の首都に定めた。オゴデイの時代にジャムチ(駅伝制)が整備され、モンゴル帝国各地との結びつきが強められた。

第5代大ハーンであるクビライが首都を大都に定めた後もモンゴル本土の拠点都市として重んじられる。明を建国した朱元璋による北伐を受け、モンゴル族が北方に追われた後は北元の首都となった。

16世紀末、チベット仏教の寺院エルデネ・ゾー建設の資材調達のためカラコルムは荒廃した。その後、しばらく歴史上から姿を消すが、19世紀末にロシアの研究者ニコライ・ヤドリンツェフが遺跡を発見し、最初の発掘調査は1933年から1934年までソビエト連邦とモンゴル人民共和国が合同で行うも調査隊長のドミトリー・ブキニチが宮殿の存在に懐疑的な結果となったが、1948年から1949年にかけてソ連の考古学者セルゲイ・キセリョフらがモンゴルと合同で行った本格的な調査では宮殿の存在が結論され、同年にキセリョフはその業績からスターリン賞を受賞して1953年にはソ連科学アカデミー会員となった。その後は1976年から1985年までモンゴル科学アカデミー歴史研究所が調査を行い、モンゴルの民主化後は1995年からは日本や1999年からはドイツなど海外の先進国がモンゴルとの共同調査を行ってる。

現在、カラコルム遺跡は世界遺産に登録されたオルホン渓谷の文化的景観の構成資産となってる。ハラホリンは温泉保養地として知られ、朝青龍の父の故郷でもあり、彼の親族が経営するリゾート施設「ドリームランド」がある。

エルデネ・ゾー(ErdeneZuu monastery、モンゴル語:ЭрдэнэЗуу)は、モンゴルで最古の寺院。1585年、アブタイ・サイン・ハーンにより建設。境内にある巨大な仏塔はソボルガン塔といい、堕落した僧侶たちを戒めるものといわれる。また、ラブラン・ゾーは18世紀に信者たちの寄進で完成した。カラコルム近郊。世界遺産オルホン渓谷の一部。

フヴスグル湖

フブスグル湖フブスグル・ノール、モンゴル語: Хөвсгөлнуур, モンゴル文字:Köbsügülnaɣur, 英語: Lake Khövsgöl)、またはフブスグル・ダライ(「フブスグル海」、Хөвсгөлдалай)、ダライ・エージ(「海の母」、Далайээж)は、モンゴル国北西部にある大きな淡水湖。貯水量ではモンゴル最大、面積ではオヴス湖に次いでモンゴル第2位となる。なお、近年まで存在していたモンゴル海軍の活動域でもある。フブスグルという名は、テュルク諸語で青い水を意味し、ノールはモンゴル語で湖を意味する。

フブスグル湖はモンゴル北西部の、ロシア国境に近い東サヤン山脈山麓に位置する。標高は海抜1,645メートルで南北に長い形をしており、長さは136キロメートル、幅は36.5キロメートル、最大水深は262メートルになる。アジアの淡水湖では有数の水量を誇り、モンゴルの淡水の70%、全世界の淡水の0.4%はここにある。湖はフブスグル県の北部にある。南端にはフブスグル湖の交通・通信の中心であるハトガル(Хатгал)の町がある。

フブスグル湖

フブスグル湖の集水面積は比較的小さく、流れ込む川は大小96本あるが比較的少ないうえに短い。湖から出る川は、南端に発するエギーン川(エグ川、Эгийнгол)で、セレンゲ川に合流してロシア領へ出てバイガル湖へ注いでいる。フブスグル湖は、シベリアカラマツを主とするシベリアのタイガ(針葉樹林帯)の南端をなしている。

フブスグル湖はいくつかの山脈に囲まれている。その中で一番高い山は、サヤン山脈の最高峰であるムンフ・サリダグ山(ムンクサルディク山、Bürenkhaan / MönkhSaridag / Munku-Sardyk, 標高3,492メートル)で、湖の北にありモンゴル・ロシア国境に位置している。

冬にはフブスグル湖の湖面は完全に凍結する。冬季のトラック運送は、通常の道の代わりに近道となるフブスグル湖の氷上を通っていた。しかし車からの油漏れや、冬季の気温上昇でトラックやジープが氷を割って湖中に転落する事故が相次ぎ、水質汚染が懸念されることを理由に氷上の走行は禁じられるようになった。

西モンゴル

一般的には西部三県:バヤンウルギー県、ホブド県、ウブス県を指す。

バヤン・ウルギー県(モンゴル語: Баян-Өлгий ; ラテン文字転写: Bayan-Ölgiy)は、モンゴル国の自治県。県庁所在地はウルギー。設立は1940年8月[1]

同国最西部に位置する。テュルク系カザフ人が人口の93%を占める。

ホブド県(モンゴル語: Ховд, ᠬᠣᠪᠲᠤ)は、モンゴル国の県(アイマク)の一つ。県庁所在地は県名と同じホブド。

モンゴル国の西部で、南部と南西部を中華人民共和国新疆ウイグル自治区と国境を接する[1]。県は76.100平方kmをカバーし、9万人の住民があり、ホトン、カザフ、ウリアンハイ、ザフチン、ミャンガド、オオルド、トルグートなどの少数民族が混在している。

オブス県(モンゴル語: Увсаймаг)は、モンゴル国の県(アイマク)の一つ。2008年時点での人口は77,184人。同国の西部に位置し、首都のウランバートルからは1336km離れている。県庁所在地のオラーンゴムは海抜936m地点に位置する。

県名はモンゴル最大の湖であるウヴス・ヌールにちなんで名付けられた。

この県のステップ地帯の一部は、ウヴス・ヌールとして世界遺産に登録されている。県の北の境界は640kmにわたりロシアと接していて、東の境は340kmにわたりザブハン県と接している。また、南と西の境はそれぞれ200kmずつにわたりホブド県とバヤン・ウルギー県に接している。この県の面積は69,585.39 km² (26,867 mi²) で、国土の4.45%を占めている。気候は総面積の60%が山岳気候で、残りの40%がゴビ砂漠のステップ気候になっている。

この地には昔からアルタイ語族の言語を話す人々が暮らしを営んできた。現在は人口の60%がドゥルベド族(英語版)、15%がバヤド族(英語版)、15%がハルハ族で占められている。また、最近ではトゥバ族、ホトン族、カザフ族なども少なからずこの地で暮らしている。

1921年に起きた革命の後、この地方には1925年11月21日にチャンドマニ・ウーリン県(ChandmaniUulynAimag、Чандманьуулынаймаг、宝石の山の県の意)が設立された。チャンドマニ・ウーリン県は現在のオブス県、ホブド県、バヤン・ウルギー県の国の西半分を管轄していた。1931年にチャンドマニ・ウーリン県はホブド県とドゥルベド県(Dörvödaimag、Дөрвөдаймаг)に分割され、さらにドゥルベド県は1933年にオブス県と改称された。

ステップと草原(東部モンゴル)

ステップ(ロシア語:степь stepʹ、ウクライナ語:степ step、英語:steppe)は、中央アジアのチェルノーゼム帯など世界各地に分布する草原を言う。ロシア語で「平らな乾燥した土地」の意味。ステップは植生や気候によって定義される。

この用語はまた、森林を形成するほど湿潤ではないが、砂漠というほど乾燥していないような地域を指すのに使われる。気候は夏の暑気と冬の寒冷が特徴で、降水量は年間平均250~500mmである。

それは東部モンゴルによく見られ、草原地帯を形成している。

また人の存在を感じさせず、エメラルド色の草原とガゼールが見られるだけである。

多くの種類のわい生草が種を飛ばし始める晩春には、草原は実に美しさを増してくる。

南東モンゴルは才能のある鍛冶職人がいる小さなドリガンガ村、有名な死火山であるアルタンオヴォー、王・女王・王子石、聖なる山:シリンボグド山、最も大きな洞窟の一つタリンアグイで有名である。


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